おのでら鍼灸経絡治療院

体のこと、あれこれ

「妻を帽子とまちがえた男」②

2017/11/09

オリバー氏が著した「妻を帽子とまちがえた男」は1985年に出版されたものである。
つまり、30年以上前に出版されたものだが、今読んでも新鮮な驚きとともに、脳の持つ不可思議さや深遠なる可能性、そして障害を抱えてもなおアイデンティティを保つために自分の世界で適応しようとする人たちへの人間賛歌、そういったものを私たちに教えてくれる。
内容的には「喪失」、「過剰」、「移行」、「純真」の四つの部から構成され、それぞれのキーワードに沿った、全24例の症例が紹介されている。
昨日の「妻を帽子とまちがえた男」の症例は「喪失」の章で書かれている。
彼が患った視覚失認症は目に見えるものを認識して何かを判定する能力の「喪失」だったからである。
「喪失」の中では次のような症例も紹介されている。

私たちが姿勢を保ったり、運動したりできるのは、

自分の体が今どのような状態になっているかを常に認識でき、

手足を動かしながらその動きが正確であることを常にフィードバックしながら判定する能力があるからである。

関節がどのくらい曲がっているか、どの程度力が入っているか、を瞬時に感じ取るセンサーが関節や筋肉、腱などにあるのだ。
その感覚は余りにも当たり前すぎて、普段意識されることはない。
それは固有感覚と呼ばれる。

この固有感覚はこれを読んでいるあなたの体でも今まさに機能しており、それによって姿勢を保つことができているのである。

クリスチーナは、ホッケーと乗馬に熱中する、二人の子供を持ち、自宅でコンピュータープログラマーの仕事をしている聡明な女性だった。

ある時、腹痛から胆石が見つかり、胆嚢除去手術を受けることになった。
それで手術予定日の三日前に入院し、感染予防のための抗生物質が投与された。
すると、手術前日に彼女は体がグラグラ揺れて、足もとがおぼつかなくなる夢を見た。
精神科医は手術前の不安からくるものだと言った。
ところが、その何時間か後に、クリスチーナは本当に足元がおぼつかず、バタバタとぎこちない歩き方しかできなくなってきたのである。
手から物も落とす。
再度診察した精神科医は「不安からくるヒステリー」と診断した。
しかし、状態は手術当日にはさらに悪化していった。
足元を見つめていなければ立っていることもできず、手では何も持つことができない。
目で確認していないと手がどこへ動くかもわからないのである。
何かを取ろうと手を伸ばしたり、食べ物を口に運ぼうとすると、狙いが外れてしまうのだ。
彼女はベッド上で起き上がることさえできなくなった。
そしてその症状は顔にも現れ、奇妙に無表情になり、だらりとたるんだ状態になってしまった。
顎が垂れ下がり、口はあき、音声を発する構えされも取れなくなってしまったのである。
彼女は訴えた。
「なにか恐ろしいことが起こったのです。体の感覚がないのです。不思議な変な気分です。体がなくなったみたいです」

と。

神経機能と筋機能についての電気的な検査により明らかになったのは、頭の先からつま先までの固有感覚の喪失と、触覚、温度覚、痛覚の若干の低下だった。

運動神経にも若干の低下が見られたが、彼女を襲った運動障害の主な原因は運動神経の障害ではなく、固有感覚の喪失だったのだ。
腰椎穿刺で感覚神経が炎症を起こしていることが判明した。
聡明なクリスチーナは自分の体に起こったことを通じて、固有感覚について以下のように表現した。
「固有感覚というのは体の中の目みたいなもので、からだが自分を見つめる道具なのですね。私の場合のように、それがなくなってしまうのは体が盲目になってしまうようなものなのですね。だから私は顔についている目で見なくてはならないのですね。からだの中の目の代わりに」
と。
結果的に言うと、発症から8年経過しても固有感覚は戻らなかった。
彼女の本当に血の滲むような努力の末に視覚や聴覚の代償によって3ヶ月後には座っていられるようになり、ついには歩行さえも再獲得することができた。
しかし、もちろん注意がそれてしまうと失敗してしまう。
声も平板な声しか出せない。
彼女が抱える「離人感」「非現実感」は時にアイデンティティを見失いがちにさせる。
フロイトは
「自我とは何よりもまず肉体的なものである」
と言ったそうだが、人は体の感覚があって初めて自分というものの存在を自覚することができるのだ。

ぜひ彼女の苦悩と努力の軌跡をお読み頂きたいと思う。

紙幅の関係でその全てを紹介できないのが残念だが、「過剰」の章ではある反応が過剰起きることに伴う問題を抱える症例が紹介されている。

「移行」とは主に「過去への移行」を意味する。
様々な原因や現象によって過去の記憶が人々によみがえる。
しかしその記憶は様々で、ある者にとっては単なるうるさく、煩わしいだけものであり、その消失を心から望む。
ある者にとっては望郷の念にかられるもので、その発作が起きると心がやすらぎ、その消失を悲しむ。

そして、またある者にとっては地獄の苦しみを伴う過去の記憶だった。

薬物使用中の意識錯乱の中で身の毛もよだつような方法で恋人を殺してしまった男がいた。

本人にはその記憶が全くなく、催眠などでもその記憶を引き出せなかった。
彼は罪には問われなかったが、病院に隔離され、本人もそのことに安堵し、心穏やかに過ごしていた。
ところがある事故をきっかけに、封印されていた殺害時の記憶が蘇ってきたのである。
その記憶の内容は現場の状況に一致し、まさに殺人の記憶に間違いはなかった。
彼は罪を犯してから数年の後に慟哭の闇に身を置くことになったのである。
罪を犯したことは知っていても現場の記憶がない者に突然凄惨な場面が蘇るのは、どれほどの苦しみだっただろうか。
しかし、彼は自分の行った行為を、時間をかけてでも受け入れなければならなかった。

「移行」ではそんな症例が紹介されている。

「純真」では一般に「知恵遅れ」と呼ばれている方たちの心の動きや、たぐいまれなる能力について記されている。
4例中3例はいわゆるサヴァン症候群の人たちだ。
中でも数字を操る双子の兄弟たちの存在には本当に驚かされる。
昔「レインマン」という、それこそサヴァン症候群の人をモチーフにした映画を見たが、そのストーリーの中でDustin Hoffman演じる主人公が、マッチ棒がパラパラとこぼれた瞬間に「246」と数字を叫ぶ場面があった。
そして次に「82」と言うのである。
「246」はこぼれたマッチ棒の数で、「82」はそれを三等分した数である。
実はそれと同じ場面がこの兄弟を紹介する場面でも出てくる。
少し調べただけでは本書の、この場面が映画に引用されたのかどうかは分からなかったが、映画は1988年に作成されたのでそうかもしれない。
兄弟が落ちたマッチ棒を見て唱えた数字は「111」、そして次に唱えたのは「37」だった。

確かに落ちていたマッチ棒の数は111本で、それを三等分すると37だった。

二人は数を数えたのではなく、「見えた」と表現している。

バラバラに落ちたマッチ棒を見て数字が見えるとは一体どのような世界なのだろうか。
そして、なぜ三等分しなければならなかったのだろう。
実は彼らにとっては「素数」こそが大事な、とても意味のある数字だったようだ。
1以外にはその数字そのものでしか割り切れない数字である。
37も素数である。
ある時、兄弟がお互いに6ケタの数字を出し合って、楽しそうにしていた。
一方が数字を言うと、もう片方がニッコリと笑う。
そして次にもう片方が6ケタの数字を出し、再び二人で微笑み合うのである。
オリヴァー氏には最初その数字がどのような意味を持つのかわからなかったが、家に帰ってから調べてみるとそれは「素数」だった。
自分は知らなかったが、「素数」を探し出す作業というのはものすごく時間がかかるそうだ。
同様にそれが素数かどうかを検証することにも時間がかかるそうなのだが、それを彼らは頭の中でだけでやってのけていたのである。
オリヴァー氏も彼らが行っていたその「素数遊び」に加わろうと、素数表をカンニングしながら7桁の素数を彼らのそばでつぶやく。
すると瞬間彼らは押し黙った。
そして数分後にニッコリと笑ったのだ。
どうやら素数であることが確認されたようだ。
彼らはオリヴァー氏を仲間にするため場所を空けてもくれた。
そうして素数表をカンニングするというズルをしながら彼らの遊びに加わったオリヴァー氏だったが、彼らが唱える数字が10桁を超えるようになるともうついていけなかった。
その素数表には10桁までの素数しか書かれていなかったからだ。
結局二人の素数遊びは20桁まで続いた。
もうただただすごいとしか表現のしようがない。
簡単な計算もできない彼らが住む数字の世界はどのようなものだったのだろう。
素数を通じて、そんな豊かな時間を過ごす彼らだったが、当時の医学は二人だけの世界に閉じこもると現実世界に適応できないからとふたりを引き剥がしてしまうのである。
「時代」と言ってしまえばそれまでだが、そんな悲しく、残酷なことが行われたのである。
「普通」とは一体何なのだろうか。

そしてそれに近づくことがどれほど大切なことなのだろうか。

本著では神経科医から見て、非常に印象的だった症例が多数紹介されている。
そこには医学的な分析や哲学的な論評も記されており、読むことに一定の努力を要する部分もあるが、それを上回る感動を与えてもくれる。
それは本著が単なる「奇妙な症例の紹介」だけでなく、彼らを一人ひとりの人間として慈しみ、彼らの世界を深く理解しようとするオリヴァー氏の姿勢が垣間見えるからだと思う。
オリヴァー氏自身も波乱万丈な人生を歩んでこられたようで、その苦しみが彼の優しさを生んだのかもしれない。

それについてはまた別の機会に紹介できればと思う・・・。

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